MONJI’S STORY 中卒引越し会社社長のストーリー

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文字放想 名前の意味「想いを放つ」
1984年10月生まれ
神奈川県川崎市出身
14歳(中学校2年生)の時から引越し会社で作業員のアルバイトを始める。
その後、各引越し会社を何社も作業員のアルバイトや社員として働く。
21歳の時(平成18年5月)に株式会社アップルを設立。現在に至る。

文字放想は、なぜ存在し、なにを目指しているのか

“出会う人の人生を「ナナメウエ↗」に向ける”

わたしの人生テーマは「泣けるぐらい、笑える人生にしよう。」

人生とは終わりなき旅であり、人が生きるということがどういうことかを探し続ける旅。最終的に、人生において重要なことは結果ではなく、プロセスだと想う。だからこそ、今も未来も全力で生きる。何回失敗しても、できるまでやり続ける。絶対に諦めない。人生を終える時に、自分の人生は最高の旅だったと、泣けるぐらい笑いたい。

わたしは14歳で行動した。
21歳で起業した。
24歳で諦めずに踏ん張って、人生の目的・目標を定めた。
それから目的(軸)をぶらさず、信念を磨き続けながら、目標を追い求め走り続けている。

結果、言葉では言い表せないほど幸せである。
過去の自分では想像が出来ないほど、素晴らしく豊かな人生になった。
その理由は、引越しという仕事と巡り会えたから。そして、仕事で得られる機会に対して、全力で立ち向かい、瞬間、瞬間を完全燃焼してきたからだと思っている。「仕事は、自分の人生を豊かに生きるためのツール」とは、自分自身の経験から。

自分がこれだけ人生を豊かに生きることができているのだから、誰もが同じように豊かな人生を歩むことができる。誰もが可能性を持っている。

これからの人生は、誰にでも一人でも多くの人に自分と同じような機会を与えてあげられるように、大きな夢や希望を持たせてあげられるように、全力で歩んでいく。わたしと出会ったから、アップルと出会ったから、人生が豊かになったという人を一人でも多く生み出したい。一人ひとりの人生にとって重要なプロセスを提供する人や場所で在りたい。だから、わたし自身も会社も成長し続ける。

1997年

中学校1年生の2学期から不登校

小学生、中学校1年生の1学期までは真面目に学校へ行っていた。
学校へ行くよりも遊ぶ方が楽しくて、行かなくなった。
2学期より不登校。

1998年

中学校2年生、14歳で働き始める。

最初は遊ぶお金が欲しかった。働こうと考え、アルバイトの面接へ。
3社目にしてようやく働けることになった。
それが小さな引越し会社。僕の引越し人生はここから始まることになる。

お金欲しさに働いたのだが、働きだしたら仕事にメチャクチャはまっていった。
仕事が楽しくてしょうがなかった。
気づけば、お金なんてどうでも良くて、ただ仕事ができるようになりたかった。

1999年

中学校3年生の歳、自分の将来。

「学歴ない奴は自分で会社をやるか、成長している会社に乗るしかない。」
当時働いていた会社の社長にそう言われた。その言葉がセンセーショナルで自分の心には深く残った。考えさせられた言葉だった。

中学3年の歳は、週5〜6日ひたすら働いた。休みなんてほとんどいらなかった。学校へは1年間で5日程度しか行かなかった。もちろん親も学校の先生も、友達も、みんな僕が働いていたことを知っていた。

高校受験すらもしなかった。「高校くらい出とけ」と言われたこともあったが、断った。今から焦ってもどうせろくな高校に行けないし、学校に行くよりも働いていたほうが学ぶことがいっぱいあったから。

中学3年の春休み。みんなは4月から高校生だと浮かれていた3月。僕は引越しの繁忙期で、休みもほとんど無く朝から遅くまでやみくもに働いた。

言うと驚かれるし、自分でも振り返ると不思議に思うが、中学3年(15歳)の時には、既にチームリーダーとしてお客様の現場へ行っていた。「お客様のところに行ったら、18歳と言うんだぞ。」という社長の言いつけを守って、お客様に歳を聞かれたら「18歳です!」と言っていた。今なら考えられない。

2001年

17歳。引越し会社の立ち上げ。リサイクルショップ店長。

以前現場で一緒だった人から
「自分で引越し会社を作るから、一緒にやらないか。」
と誘われて手伝うことにした。
最初は2人だけなので、電話は転送。
営業や見積も、僕はバイクでまわった。
朝から、引越し作業して夜から朝までチラシ配布。
現場がなければ昼間は営業。夜はまた朝までチラシ配布。
プライベートなんてなかったけど、いい経験だった。
その会社はあっけなく閉じることになったけど。

前に働いていた会社から声を掛けられ戻った。「リサイクルショップをオープンするから店長で行ってきて。」そんな経験ないのに、引き受けることになった。まあこれもいい経験だった。

2002年

18歳。営業、管理職、そして独立採算。

18歳になり、車の免許を取得すると、すぐに「営業をやれ。」ということで、訪問見積もりの営業に。1件30分で見積を済ませ、次のお客様宅まで30分で移動する。計1時間。これを1日10件以上まわる。とにかく急がなければいけない。3ヶ月位毎日こんなだった。この時も休みはない。

次は、管理職へ。事務所を仕切ることになった。朝は会社を開け、現場管理、営業管理、金銭管理。会社を締めるのも僕。まわりはほとんど年上。10以上年上の人だってざら。とにかく人を動かすのが大変で、初めて10円ハゲができた。

独立する気はなかったが、当時の社長がお金にだらしなく、仕事もろくにしなかったので、「このままいったら会社マズイな。」と思って、オーナーに話しをしてみた。
「このままだと一所懸命やっても伸びない。なら自分でやった方が良いです。」
そうしたら、「分かった。それなら自分でやらしてやる。」と。そこから独立採算で引越し事業部を別に立ち上げることになった。

18歳の時は、365日のうち360日働いた。朝から夜遅くまで。

2003年

19〜20歳。年商2.5億。月収100万円。退職。

その後、順調に業績を伸ばした。収入もやればやっただけ見返りはあった。
ただ、会社を辞める決意をする。

業績は良かったが、ある月に赤字になった。
それをきっかけにオーナーから「従業員の給料を下げろ」と言われた。
当時、安い給料で頑張ってくれていた従業員の給与をさらに下げることを、
考えることはできなかった。他に方法はないのかと。
その話し合いの中で、「人はいつか辞めるから、辞めるまでこき使った方が得だ。」とオーナーが言った。

僕は、その言葉を聞いた瞬間、辞めることを決意した。このことについては、僕の中で絶対に忘れない出来事だ。その言葉を言われた場所、状況など、全てハッキリと覚えている。

2006年

21歳。株式会社アップル設立。

会社を辞めてから、やりたいこともなく、何かいい仕事はないかと日々は過ぎていった。しかし、普通に働いた給料では足りなく、貯金を切り崩しながら生活するも苦しかった。妻と子供2人に加えて、お義父さんが亡くなったためにお義母さんを引き取ってもいた。

貯金も底をつくと、消費者金融にお金も借りたりして、なんとかしていた。
でも、マイナスの生活はそう長くは続かない。なんとかしなくては。でも、学歴もスキルもない。それでも働ける会社では生活ができる収入には厳しいものばかりであった。

「やるしかない。」

引越しはもうやらないと思っていたけど、背に腹は変えられない。家族を養うためにはやるしかない。僕にはこれしかない。生活するために、僕にはこれしかないんだ。引越し会社をやるしかない。最悪、寝る間を惜しんでチラシを撒いてでもすれば、生活費は十分に稼げるはずだ。

そうして、2006年5月に、アパートの1室を借り、
中古トラック1台を買って、1人で始めた。
それが『アップル引越センター』だ。

2010年

24〜25歳。何のために仕事をするのか?

会社を作ってから順調だった。3年ほどは売上も倍増で伸び、
やればやっただけ結果がともなう環境に何の疑いもなかった。
しかし、人も増え、営業所も増えたところで、何かがおかしくなっていった。

業績も伸び悩み、現場で顔を合わせるスタッフたちは朝もだるそうに来る。遅刻も多い。ありえないクレーム。おかしい言動。帰社してからも、不平不満しか出ない。
それまでは朝早くから出社し、夜遅くまで仕事して、みんなと夜ご飯食べに行って、帰って寝るのは夜中。休みもほとんどない。そんなことは全然苦ではなかったのに、その時期は苦痛でしょうがなかった。そんな日々の末期は、今日みんな帰ってきたら「今日でこの会社終わります。お疲れ様でした。さようなら。」って言って会社辞めようと毎日考えていた。

何をしていいか分からず、本を読んだり、勉強したり、人と会ったりするようにした。様々な経験の中で、「何のために仕事をするのか?」
会社は何のためにあるのか?自分は何のために生きているのか?などと考えるようになっていた。

そんな中、知り合いになった先輩経営者から聞かれた。「何か目標はあるのか?」と。私はとまどいながら「そうですね。引越し会社なので、とりあえず全国展開したいです。それができれば売上50−60億くらいにはなると思うので、それくらいにはしたいと思ってます。」と言った。
先輩は「ちっちゃいな。オレはもっとでかい目標を持っている。お前もまだ若いんだから可能性がある。目標は大きく持て。」と言った。

そこから思っていたことを整理して考えてまとめた。
そうやって、会社の理念(目的)、目標をたてた。